Management Column労務費を守るための価格交渉と国が示すルール

コロナ禍以降、原材料費やエネルギー費と並んで、労務費(人件費)の上昇が企業のコスト構造に大きな影響を与えています。最低賃金の引上げや人手不足による賃金競争が進む中で、中小企業にとって労務費を商品・サービスの価格に反映させ、収益性を維持することが経営課題になっています。本稿では、国が示す指針や実務的なポイントを整理しながら、「労務費をきちんと価格に反映する」ための価格交渉の考え方と実践ポイントを紹介します。
1.労務費転嫁指針とは
労務費の適切な価格転嫁を進めるうえで、実務の拠りどころとなるのが「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針(労務費転嫁指針)」です。
これは、労務費を含むコスト上昇分を取引価格に適切に反映させるために、発注者・受注者それぞれが取るべき行動を整理したガイドラインで、2023年11月に内閣官房と公正取引委員会が策定しました。
近年、最低賃金の引上げや人手不足を背景に労務費が上昇する一方、取引現場では「言い出しにくい」「交渉しても受け入れられない」といった理由から、労務費が価格に十分反映されないケースが課題となってきました。そこで政府は、物価高に負けない賃上げを実現するためには、原材料費やエネルギーコストだけでなく労務費を含めた適正な価格転嫁をサプライチェーン全体で定着させることが不可欠との考え方のもと、価格転嫁対策を強化し、その一環として本指針を示しています。
2.「労務費転嫁指針」の“12の行動指針”
労務費転嫁指針は、労務費を含むコスト上昇を、取引価格へ適切に反映させるために、発注者(買い手)に6つ、受注者(売り手)に4つ、共通で2つの行動を示しています。
■ 発注者が採るべき・求められる行動
- 1.経営トップが関与し、方針を「決めて・示して・点検」する
- 現場任せで“協議が進まない”状態をなくすため、トップ自らが方針を文書等で受注者にも伝え、定期的に交渉状況の報告を受け、必要に応じて追加対応を指示することが重要です。専門部署や相談窓口の設置、グループ会社への展開も、円滑な価格転嫁につながります。
- 2.発注者側から、定期的に協議の場を設ける
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発注者の方が取引上の立場が強く特に労務費は言い出しにくい状況があります。そのため、積極的に発注者からそのような協議の場を設けることが必要です。
また、「契約更新時だけ」ではなく、業界慣行に応じて年1回、半年1回など発注者から労務費転嫁の協議の場を設けることが求められています。 - 3.根拠資料を求めるなら「公表資料」を基本にし、合理性を尊重する
- 労務費の価格転嫁にあたり、発注者が根拠資料の提出を求める場合は、最低賃金や春闘結果などの公表資料に基づく説明を基本とし、受注者がそれらを用いて提示した希望価格は合理性のあるものとして尊重する必要があります。過度に詳細な資料や内部のコスト構造まで求めることは、実質的な交渉拒否と受け取られかねず、法令上の問題となるおそれがあります。満額を受け入れない場合でも、その理由を丁寧に説明する姿勢が重要です。
- 4.サプライチェーン全体を見て妥当性判断する
- 労務費の価格転嫁は、直接の取引先だけで完結するものではなく、サプライチェーン全体で進めることが重要です。発注者は、受注者がさらにその先の取引先とも価格調整を行う立場にあることを理解し、要請額の妥当性判断に反映させる必要があります。
- 5.要請があれば協議のテーブルにつき、不利益取扱いをしない
- 受注者から労務費の上昇を理由に価格引上げの要請があった場合、発注者は必ず協議のテーブルにつくことが求められます。労務費は原材料費などと同様、価格に反映すべき正当なコストであり、過去の賃上げ分だけでなく、今後の賃上げに必要な分についても協議の対象となります。
- 6.申入れの巧拙にかかわらず協議し、必要なら「考え方」を提案する
- 受注者の申入れが上手い、下手に関係なく協議し、必要に応じて労務費上昇分の転嫁に係る考え方(算定の例・フォーマット等)を提案するなど受注者に寄り添った対応が求められます。 しかし発注者が特定の算定式“しか認めない”運用は問題になる可能性があります
■ 受注者が採るべき・求められる行動
- 1. 相談窓口等を活用し、情報を集めて交渉に臨む
- 物価に負けない賃上げを行うためには、受注者としても積極的に価格転嫁の交渉をしていくことが求められています。国・自治体・支援機関(商工会議所・商工会等)に相談し、積極的に情報収集して活用あうることが有効とされます。
- 2. 根拠資料は「公表資料」を使う
- 自社の詳細なコスト構造を無理に開示する必要はなく、最低賃金の上昇率や春闘結果など公表資料を根拠として用いることが有効です。内部情報を出し過ぎると、逆に原価査定を受けるおそれもあります。
- 3. 値上げ要請のタイミングを工夫する
- 発注者には定期的に協議の場を設けることが求められています。そのため、受注者から積極的に予算策定前、定期改定・契約更新時、最低賃金の方向性が見えた後など、価格交渉を申し出やすいタイミングを作ります。
- 4. 発注者の提示を待たず、希望価格を自ら提示する
- 発注者が先に価格を提示すると上振れ交渉が難しくなるため、受注者側から希望価格を先に提示します。希望価格の設定では、自社だけでなく自社の発注先やその先の労務費も考慮します。
■ 発注者・受注者 共通で求められる行動
- 1. 定期的にコミュニケーションをとる
- 労務費の価格転嫁を円滑に進めるには、発注者・受注者双方が定期的なコミュニケーションを取ることが重要です。 発注者は価格交渉促進月間や定例会合を活用し状況把握に努め、受注者も日常的な対話を通じて信頼関係を築くことが、適切な価格転嫁につながります。
- 2. 価格交渉の記録を作成し、双方で保管する
- 価格交渉の記録を作り、発注者・受注者双方で保管します。 発注者・受注者双方が確認して残すことで、双方の認識のズレを解消し、将来のトラブル回避に繋がります。
3.協議に応じない場合
2026年1月の労務費転嫁指針の改正では、受注者から労務費の上昇を理由に価格協議の要請があったにもかかわらず、発注者が協議に応じず、一方的に取引価格を据え置く行為は、「協議に応じない一方的な代金決定」として問題になり得ることが明確化されました。これは2026年1月1日施行の中小受託取引適正化法(取適法)により禁止される行為であり、今後は「協議しないこと」自体が法令上のリスクとなる点に、発注者は十分留意する必要があります。
■今後の政府の対応
今後も労務費の価格転嫁を進めるため、内閣官房は関係省庁や産業界・労働界と連携し、価格転嫁が進んでいない業種を中心に「労務費転嫁指針」の周知を継続します。
一方、公正取引委員会は、指針に沿わない行為が公正な競争を阻害するおそれがある場合、独占禁止法や中小受託取引適正化法に基づき厳正に対応します。また、匿名で情報提供できる仕組みを活用し、実態把握と調査を通じて、適切な価格転嫁の実現を後押ししていきます。
4.価格転嫁を実現するために
労務費の価格転嫁は、単なる値上げ交渉ではありません。「労務費転嫁指針」は、知っているだけでは意味はなく、実際の取引や協議の場で根拠として活用してこそ、その価値が発揮されます。
また、価格は一方的に決めるものではなく、協議を前提として決めるものであるという考え方を取引のルールとして定着させることも重要です。協議の機会を形式化・定期化することで、「言いにくい」「切り出しにくい」といった構造的な問題も解消されなければなりません。
そして今後は、「協議に応じなかったこと」そのものがリスクになる時代に入っていきます。制度の後押しが強まる中で、価格転嫁に向き合う姿勢は、企業のコンプライアンスや取引の持続性を測る重要な指標になりつつあります。
労務費の適切な価格転嫁を実現するためには、受注者・発注者のどちらか一方の努力だけでは足りません。双方が指針に沿った行動を取り、対話を重ねることが、持続的な取引関係と賃上げを両立させる第一歩となるでしょう。
■参考資料
政府広報オンライン「始めませんか? 労務費を反映した価格交渉」公正取引委員会「労務費の適切な転嫁のための価格交渉に関する指針」
